著作権に関連する裁判の判例である「智惠子抄抄事件(最高裁平成5年3月30日第三小法廷)」をテーマに、著作権専門の弁護士がわかりやすく解説します。著作権法に関することはなかなか理解しにくいため、トラブルなどが起きたときやトラブルを未然に防ぐためには著作権の専門の弁護士にご相談ください。
著作権法上、著作者とは、「著作物を創作する者をいう。」と定義されていますが、著作物の創作にあたっては複数の人間が関与してくる場合があり、その関わり方によって著作者が誰なのかということが問題になることがあります。
本件は高村光太郎の詩集「智惠子抄」についての事件です。詩集「智惠子抄」は高村光太郎が妻である智惠子抄について書いた詩のみを集めた詩集です。詩集「智惠子抄」は、著作権法でいうところの編集著作物にあたります。
本件では、もちろん「智惠子抄」に掲載されている各詩の著作者は高村光太郎になるわけですが、編集著作物である「智惠子抄」の作者は高村光太郎なのか、それとも詩集の出版をした出版社なのかについて争われた事件です。
本件においては出版社が最初に詩集の話を高村光太郎に提案をしていました。高村光太郎は最初は出版社の提案を断っていましたが、その後、智惠子抄に関する詩集を出すことを決意して、出版社に連絡をして、「智惠子抄」の出版に至っているという経緯があったため、出版社が編集著作物の著作者である旨を主張して争われた事件です。
「本件編集著作物である『智惠子抄』は、詩人である高村光太郎が既に公表した自らの著作に係る詩を始めとして、同人著作の詩、短歌及び散文を収録したものであって、その生存中、その承諾の下に出版されたものであることは、原審の適法に確定した事実である。
そうすると、仮に光太郎以外の者が『智惠子抄』の編集に関与した事実があるとしても、格別の事情の存しない限り、光太郎自らもその編集に携わった事実が推認されるものであり、したがって、その編集著作権が、光太郎以外の編集に関与した者に帰属するのは、極めて限られた場合にしか想定されないというべきである。
そもそも本件において、光太郎以外の者が『智惠子抄』の編集に携わった事実が存するかをみるのに、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、この認定したところによれば、(1) 収録候補とする詩等の案を光太郎に提示して『智惠子抄』の編集を進言したのは、上告人、 Aの被承継人であり、Bの名称で出版業を営んでいたC(以下、単に「C」という。)であったが、『智惠子抄』に収録されている詩等の選択は、同人の考えだけで行われたものでなく、光太郎も、Cの進言に基づいて、自ら、妻の智惠子に関する全作品を取捨選択の対象として、収録する詩等の選択を綿密に検討した上、『智惠子抄』に収録する詩等を確定し、『智惠子抄』の題名を決定した、(2) Cが光太郎に提示した詩集の第一次案の配列と『智惠子抄』の配列とで一致しない部分がある、すなわち、詩の配列が、第一次案では、光太郎が前に出版した詩集『道程』の掲載順序によったり、雑誌に掲載された詩については、その雑誌の発行年月順に、同一の雑誌に掲載されたものはその掲載順に配列されていたのに対し、『智惠子抄』では、『荒涼たる歸宅』を除いては制作年代順の原則に従っている、(3) Cは、第一次案に対して更に二、三の詩等の追加収録を進言したことはあるものの、光太郎が第一次案に対して行った修正、増減について、同人の意向に全面的に従っていた、というのである。
右の事実関係は、光太郎自ら『智惠子抄』の詩等の選択、配列を確定したものであり、同人がその編集をしたことを裏付けるものであって、Cが光太郎の著作の一部を集めたとしても、それは、編集著作の観点からすると、企画案ないし構想の域にとどまるにすぎないというべきである。
原審が適法に確定したその余の事実関係をもってしても、Cが『智惠子抄』を編集したものということはできず、『智惠子抄』を編集したのは光太郎であるといわざるを得ない。」
この智惠子抄事件では、最終的に詩の選択・配列を行ったのが高村光太郎であったことから高村光太郎が編集著作者であると認定されました。
企画や構想を提案した程度では創作行為とは言い難く、やはり最終的な選択・配列を行っていないと著作者としては認められにくいと言えるでしょう。