
「エンリケ」の芸名で一世を風靡し、「日本一のキャバ嬢」としてその名を轟かせたA氏。引退後もタレントや経営者として活躍する彼女の名前と肖像を、離婚した元夫が経営する会社が無断で使用し続けているとして、大きな注目を集めた裁判がありました。
令和5年11月30日、東京地方裁判所はA氏の訴えを全面的に認める判決を下し、被告企業らに対して名称や肖像の使用差止め、さらには商号登記やドメイン名の抹消まで命じました(東京地裁 令和5年(ワ)第70056号・裁判所ウェブサイト)。
この判決は、個人の名前や肖像が持つ「人を惹きつける力=顧客吸引力」、すなわち「パブリシティ権」の保護について、極めて重要な示唆を与えています。特に、著名人の名前が会社の「商号」やウェブサイトの「ドメイン名」にまで使われている場合、その権利はどこまで及ぶのでしょうか。
本記事では、この「エンリケ事件」判決を、法律の専門家でない方にもご理解いただけるよう、ポイントを絞って徹底的に解説します。ビジネスで著名人の名前や肖像を使おうと考えている方、ご自身の名前で活動するインフルエンサーの方にとっても、決して他人事ではない、必見の内容です。
1. 事件の概要:一体、何が争われたのか?
この裁判を理解するために、まずは登場人物とこれまでの経緯、そして双方の主張を整理してみましょう。
登場人物と背景
原告:A氏(芸名:エンリケ) 伝説のキャバクラ嬢として知られ、令和元年には4日間の引退式で5億円を売り上げるなど、圧倒的な実績を持ちます。引退後も書籍の出版やテレビ出演、SNSでの発信を続け、絶大な知名度と影響力を有しています。
被告:株式会社エンリケ空間、株式会社エンリケスタイル、株式会社エンリケスタッフ いずれも社名(商号)に「エンリケ」の名を冠した3つの株式会社です。
関係者:訴外B氏 被告3社の経営に実質的に関与しており、原告A氏の元夫です。A氏とは平成31年に婚姻し、令和4年10月26日に離婚しました 。
これまでの経緯と対立
原告A氏は、かつて元夫であるB氏と共に事業を展開していました。被告のうち「株式会社エンリケ空間」が設立された令和元年6月には、A氏自身が代表取締役に就任していました。しかし、B氏との婚姻関係が破綻し、離婚直前の令和4年10月14日にA氏は代表取締役を辞任。後任にはB氏が就任しました。
問題は、A氏が経営から完全に離れた後も、被告3社が引き続き「エンリケ」という名称とA氏の肖像(写真)を、自社のウェブサイトやSNS、さらにはエステサロン、チーズケーキ、クレジットカードといった様々なサービスの広告宣伝に大々的に使用し続けたことにあります 。
原告(エンリケ氏)の主張
A氏は、これらの行為が自らの財産的価値である「パブリシティ権」を侵害するものだと主張しました 。具体的には、以下の5点を裁判所に求めました。
肖像の使用差止め
「エンリケ」を含む商号、標章、ドメイン名の使用差止め
ウェブサイトからの肖像・名称の削除
「エンリケ」を含むドメイン名の削除
「エンリケ」を含む商号登記の抹消手続
被告(元夫側の会社)の主張
これに対し、被告側は真っ向から反論しました。
「エンリケ」はスペイン語やポルトガル語の男性名で使われる一般的な名称であり、著名なベーシストにも同名の人物がいる。原告が独占できるものではなく、顧客吸引力もない 。
そもそも原告の知名度は、我々が事業活動を展開したことで飛躍的に高まったのだから、むしろ被告らの名称にこそパブリシティ権があるべきだ。
名称の使用は、原告が代表取締役だった時に同意を得ている。一度同意した以上、一方的に取り消すことはできない。
今さら使用を差し止められると、フランチャイズ契約先に損害賠償を請求されるなど、会社の経営が揺らぐ。このような請求は権利の濫用だ。
このように、両者の主張は真っ向から対立。争点は「パブリシティ権侵害の成否」「原告の同意の有無」「権利濫用の成否」などに集約されました 。
2. そもそも「パブリシティ権」とは何か?
この裁判の核心である「パブリシティ権」。まずはこの権利について、基本からおさらいしましょう。
有名人の「名前」と「顔」が持つ経済的価値
人気俳優がCMに出演したり、スポーツ選手が監修した商品が発売されたりすると、その商品やサービスの売上が大きく伸びることがあります。これは、その有名人が持つ知名度や好感度、カリスマ性が、消費者の購買意欲を刺激するからです。
このように、人の氏名や肖像などが持つ「顧客吸引力」。この顧客吸引力から生じる経済的な利益や価値を、本人が排他的に利用できる財産的な権利として保護するのが「パブリシティ権」です。これは、日本国憲法13条が保障する幸福追求権に由来する人格権の一種と解釈されています 。
パブリシティ権侵害の判断基準:「ピンク・レディー判決」の3類型
では、他人の名前や肖像を無断で使えば、どのような場合でもパブリシティ権の侵害になるのでしょうか。答えは「ノー」です。例えば、報道や批評の目的で写真を使うことまで制限してしまうと、表現の自由や報道の自由を不当に害する恐れがあります。
そこで、どのような場合にパブリシティ権侵害として違法になるのか、最高裁判所が明確な基準を示した有名な判決があります。それが、平成24年2月2日の「ピンク・レディー判決・裁判所ウェブサイト」です 。
この判決は、パブリシティ権侵害が成立する行為を、限定的に以下の
3つの類型に整理しました 。
肖像等それ自体を、独立して鑑賞の対象となる商品等として使用する場合(例:アイドルの写真集、ポスター、ブロマイドなど)
商品の差別化を図る目的で、肖像等を商品等に付す場合 (例:有名人の顔写真がプリントされたTシャツやマグカップ、キャラクターグッズなど)
肖像等を、商品等の広告として使用する場合 (例:有名人を起用したテレビCM、ウェブ広告、ポスターなど)
今回の「エンリケ事件」では、被告らの行為が、特にこの第2類型と第3類型にあてはまるかどうかが、大きなポイントとなりました。
3. 裁判所の判断:なぜ「エンリケ」側の全面勝訴になったのか?
東京地裁は、原告であるA氏の主張をほぼ全面的に認め、被告らに対して使用の差止めから登記の抹消まで、非常に厳しい内容の判決を言い渡しました。なぜこのような結論に至ったのか、裁判所の判断を4つのポイントに分けて詳しく見ていきましょう。
ポイント1:「エンリケ」という名前に顧客吸引力はあるか? →「絶大な吸引力がある」
被告側は、「エンリケ」は一般名称であり、A氏に顧客吸引力はないと主張しました 。しかし、裁判所はこの主張を完全に退けました 。
その理由として、裁判所は以下の事実を認定しています。
圧倒的な実績:キャバクラ嬢時代に、平成29年には2日間で1億円以上、令和元年には引退式4日間で5億円を売り上げたことが広く知られている。
多方面での活躍:『日本一売り上げるキャバ嬢の億稼ぐ技術』などの書籍を次々に出版し、累計発行部数は15万部を突破している。
高いメディア露出:平成21年から令和4年にかけて20本以上のテレビ番組に出演している。
強大なインフルエンサー:インスタグラムのフォロワー数は、令和5年2月時点で66万人を超えている。
これらの事実から裁判所は、「原告は、被告らの主張するような一キャバクラ嬢にとどまらず、書籍を多数出版しテレビにも多数出演しフォロワー数も極めて多く、日本一稼いだ伝説のキャバクラ嬢として、世の中に広く認知されている」と認定 。
結論として、A氏の名称(エンリケ)と肖像には、「商品の販売等を促進する顧客吸引力があるものと認めるのが相当である」と明確に判断しました 。被告の「一般名称だ」という反論も、ウェブサイトでA氏の肖像とセットで大々的に使用している実態を見れば、明らかにA氏個人を指してその顧客吸引力を利用しようとしているのは明白だと、事実上、一蹴された形です 。
ポイント2:被告らの行為はパブリシティ権侵害か? →「典型的な侵害行為(第2類型)にあたる」
次に、被告らの行為が「ピンク・レディー判決」の3類型のいずれかに該当するか、という点です。被告側はこの点について具体的な反論をしませんでしたが 、裁判所は念のために検討し、明確に侵害にあたると判断しました。
裁判所が特に注目したのは、被告らのウェブサイトなどでの使用態様です。
被告らは、内装設計(エンリケ空間)、エステティックサロン(エンリケスタイル)、労働者派遣(エンリケスタッフ)といった、それぞれ異なる事業を展開しています 。
しかし、その全てのサービスにおいて、ウェブサイトのトップページにA氏の写真を複数枚掲載し、「ENRIKE」のロゴを目立たせ、「エンリケブランドを一緒に盛り上げませんか?」といった文言でフランチャイズ募集を行うなど、共通して「エンリケ」というブランド価値を全面に押し出していました 。
この事実から裁判所は、被告らの行為は「上記顧客吸引力により他の同種事業に係るサービスとの差別化を図るために、商号、標章、ウェブページ、ドメイン名において原告名称又は原告肖像を付したもの」であると認定しました。
これはまさに、「ピンク・レディー判決」が示す第2類型(商品の差別化を図る目的での使用)の典型例です 。被告らは、「エンリケ」というキャラクター価値を利用して自社のサービスを他社と差別化し、顧客を惹きつけようとしていた、と判断されたのです。
ポイント3:原告は使用に「同意」していたのか? →「同意があったとは認められない」
被告側は、A氏が代表取締役だった時期に名称使用の同意を得ており、それは恒久的なものだと主張しました。しかし、裁判所はこの主張も認めませんでした 。
その理由は以下の通りです。
主張・立証の欠如:被告側は「同意があった」と抽象的に主張するだけで、その同意が「いつ、誰と誰の間で、どのような内容(期間、使用方法、対価など)で」成立したのかを具体的に主張・立証できていない。これでは主張自体が失当(主張として成り立たない)だと指摘しました。
関係性の変化:仮に、婚姻関係にあり、A氏が代表取締役だった期間に、黙示的な使用許諾があったと解釈できたとしても、状況は大きく変わっています。A氏が離婚し、会社の経営から完全に離れた後までも、その同意が継続すると考えるべき具体的な根拠が示されていない。
むしろ不同意を示唆する事実:それどころか、被告側の主張によっても、元夫のB氏がA氏と離婚する際に「原告名称を使用しない旨述べたことがうかがわれる」と裁判所は指摘しています。現状で同意が継続しているとは到底認められない、と結論づけました。
ポイント4:差止請求は「権利の濫用」か? →「正当な権利行使であり、濫用ではない」
最後に、被告側が「今さら使用を止められると会社の損害が大きい、これは権利の濫用だ」と主張した点です。裁判所は、この主張も一蹴しました。
裁判所は、被告側の態度を厳しく見ています。「被告らは、原告名称及び原告肖像の商業的価値を無断使用しているにもかかわらず、原告のパブリシティ権を侵害している事実を認めようとせず、原告との間で、今後の使用につき誠実に協議しようとしたこともうかがわれない」と指摘しました 。
このような状況を考慮すれば、被告側が主張する事業上の不利益を十分に考慮したとしても、A氏の請求は「パブリシティ権の正当な行使というほかなく、権利濫用であると認めることはできない」と断じました 。
4. この判決が持つ意味とビジネスへの影響
この「エンリケ事件」判決は、単に一個人の権利を認めたというだけでなく、今後のビジネス実務、特に著名人やインフルエンサーを起用したマーケティングに大きな影響を与える、いくつかの重要なポイントを含んでいます。
影響1:顧客吸引力の証明は、もはやそれほど難しくない
かつては「そもそもこの人にパブリシティ権が認められるほどの顧客吸引力があるのか?」という点自体が大きな争点になりがちでしたが、現在ではそのハードルは下がっている、といえます。
現に原告名称及び原告肖像が商品又はサービスに使用されている事実からも、顧客吸引力があることは明らかです。ビジネスでその人の名前や顔が実際に使われているという事実自体が、ある程度の顧客吸引力の存在を物語っている、ということです。今後の訴訟では、「顧客吸引力の有無」よりも、その使い方が「ピンク・レディー判決の3類型にあてはまるかどうか」が、より中心的な争点になっていくでしょう。
影響2:商号やドメイン名も「聖域」ではない
この判決の最も画期的な点の一つは、単なる広告やウェブサイト上の表示の差止めにとどまらなかったことです。被告企業の公式な社名である「商号」の登記抹消や、ウェブサイトの住所である「ドメイン名」の削除という、非常に踏み込んだ救済を命じました。
これは、パブリシティ権を、単なる損害賠償請求権ではなく、他者の侵害を排除できる強力な権利(物権に類似した排他的権利)として捉えた判断と言えます。この判決は、安易に流行りのインフルエンサーや著名人の名前を会社名やサービス名に取り込むことの法的なリスクを、極めて明確に示しました。
影響3:「同意」は必ず書面で!口約束や「暗黙の了解」は命取り
この事件の背景には、元夫婦という特殊な人間関係がありました。しかし、裁判所はそのような個人的な事情に流されることなく、「同意」の有無を法的に厳格に判断しました。
被告側が「同意はあった」と主張しても、それを客観的に証明する契約書などの証拠がなければ、裁判所は認めてくれません。この判決は、ビジネスの世界において、他人の氏名や肖像といった権利を使用する際の基本中の基本を、改めて私たちに突きつけています。
それは、必ず契約書を交わし、使用の目的、範囲、期間、対価などを明確に定めておくことです。口約束や「仲が良いから大丈夫だろう」といった「暗黙の了解」に頼ることが、いかに危険であるかを、この事件は雄弁に物語っています。
まとめ:エンリケ事件が私たちに教えること
元カリスマキャバ嬢「エンリケ」ことA氏のパブリシティ権を全面的に認めた東京地裁判決。この判決から、私たちは以下の重要な教訓を得ることができます。
個人の名声が持つ経済的価値は強力に保護される:たとえ芸名やニックネームであっても、特定個人のイメージと強く結びつき、顧客吸引力を生んでいる場合には、パブリシティ権の対象として法的に保護されます。
商号やドメイン名も差止・抹消の対象になりうる:その使用方法が、商品の差別化や広告目的であると判断されれば(ピンク・レディー判決の類型に該当すれば)、会社の根幹である商号やドメイン名であっても、その使用を差し止められ、抹消を命じられる可能性があります。
権利関係の明確化が紛争を防ぐ唯一の道:他人の名称・肖像を使用する際は、どのような関係性であれ、必ず書面による明確な許諾契約を締結すべきです。これが、将来の深刻な紛争を防ぐための絶対条件です。
この判決は、離婚という個人的な対立が発端ではありましたが、その内容はインフルエンサーマーケティングやライセンスビジネス、キャラクタービジネスに関わる全ての人々にとって、権利の重要性とその取り扱いの注意点を再認識させる、非常に価値のあるケーススタディとなったと言えるでしょう。